ちば日記

生まれも育ちも会社も千葉。生粋の千葉県民です。

「JOKER」 底の底にて

例えばあなたが突然湧き上がってくる笑いを堪えられない病気を抱えており、周りから気味悪がられているとする。父はとうの昔に蒸発し、恋人も友達もいない。ピエロに扮して道化を演じるのが唯一の仕事だ。家に帰れば介護の必要な母の世話をし、テレビでコメディーショーを見るのがほぼ唯一の楽しみである。

仕事中には街の不良にリンチされ、失業して失意のどん底にいる時に白痴エリートにピエロの姿を馬鹿にされリンチされる。やっとのことでコメディライブに出れば場は白け、唯一の拠り所であった母からは幼少時にネグレクトされていたことを知る。

あなたならこの状況でどうするだろうか。何もかもうまく行かずどん詰まりまで追い詰められて、挙句の果てにキラキラした若い証券会社のエリートに糞ミソに馬鹿にされてリンチされたらどうするだろうか。

その時にもし、銃を持っていたらどうするだろうか。

家で観るコメディショーを本当に楽しみにしていて司会者のマレーの才能に惚れ込んでいたあなたが、マレーのコメディショーにただ馬鹿にされる為だけに招待されたのだと知ったら、その時あなたはどうするだろうか。

ジョーカーにはなることはないだろう。でもどうだろう。正気を保てるだろうか。例えば、ジョーカーが出てきた後便乗してピエロの仮面を被って乱痴気騒ぎを起こす小心者の屑野郎まで落ちぶれない自信があるだろうか。

ハロウィンで渋谷で馬鹿騒ぎして車を転がしちゃったような人達は、そんな時ピエロの仮面被って車に火をつけちゃったりするんだろうか。

 

 

玉川温泉にて

21歳の夏休みに自転車で長く旅行していて、秋田の山奥で日が暮れて途方にくれたことがあった。行けども行けども山道で、夕飯を食べるところも寝床になりそうなバス停もなく、九月下旬のしんと冷えた山道を一人自転車を漕いでいる時に玉川温泉郷に行き着いた。気温わずか10度しかなく、日暮れの山あいの青っぽい空気の中、湯気がもうとうと立ち込める異様な空間が突如現れた瞬間を今でも思い出す。

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玉川温泉は相部屋素泊まり4000円で、もう1ヶ月も湯治で滞在している二人のおじいさんと六畳一間で寝たのであった。基本的に宿泊者は自炊なのだが俺は自炊の道具も持ってなく、そこにはレストランもなく、ただ閉店間際の売店カップうどんが売っているのみであった。総檜の立派な強酸性の温泉に入りカップうどんを食べる。温泉は入った瞬間身体中がピリピリして入ってられませんでしたというと、部屋のおじさんは、それだけど効能は凄いんだよ。時間があれば岩盤浴にも当たればいい、と言って笑った。

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 72時間ドキュメンタリーというNHKの番組を見た。そこでは玉川温泉の特集をやっていて、それは玉川温泉に72時間張り付いてそこにいる人たちにインタビューする事で、玉川温泉がどういう場所かを浮き彫りにするという内容であった。番組によれば、温泉で湯治をしている人達の中には癌で余命宣告をされた人や、難病で医師から見放された人が相当数いるのだそうだ(当然健康な人もいる)。
 10年前に湯治の場と聞いた時、怪我の早期回復や関節炎やリュウマチの治療など、一般的な温泉の効能を思い浮かべていたが、まさかそんなに深刻な人々が集う場所とは知らなかった。五十歳位の女性が岩盤浴にあたりながらインタビュアーに言った。

末期癌と宣告されて、余命も告げられました。玉川温泉には一人で来てます。子供の成長をまだまだ見届けたい。一週間ここで頑張れば、家族と過ごせる時間が1ヶ月伸びる。そう考えればここに一人でいても頑張れます。

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10年前にふらりとそんなところに立ち寄って、一緒に過ごした人達を軽率な発言で傷つけてなければよいと思った。

船橋駅で財布を拾って届けてくれた方へ

所用があり辻堂まで行った。雨予報だったが綺麗に晴れた朝だった。船橋駅から1時間半、電車に揺られ辻堂に降りた時財布がどこにもないことに気づいた。発狂しそうに焦る気持ちを抑えてそのまま改札口に直行し、乗ってた電車での忘れ物を探してもらう。

どこらへんの車両ですか?

座っていたのは進行方向右側ですか?左側ですか?

何も覚えてないが、とりあえずうろ覚えの記憶を頼りに回答する。当然見つかる訳はない。見つかったら電話してもらうようお願いし、来た道を逆にたどる。歩いてきた(と思われる)ルートに祈るような気持ちでじっと目を凝らし、ホームの枯葉に財布の幻影を見ながら。あれだけいつも身近にあった財布がもうどこにもないのだと思えず、階段から目を上げた時に、電車に乗ったその時に、人混みの中に、ふとした瞬間に見つかるのではないかとずっと考えながら、家路を急ぐ。

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家を出た時から財布をカバンから取り出してないので、家にある可能性もあるのだ。そんな僅かな希望を胸に抱いて歩いていると、本当に家に忘れてきたような気がして、なあんだ、あったあったっていう未来しか想像できない。楽観的未来に縋り付かざるを得ない。

家に着き、小物置き、玄関、着替えた場所、トイレ、風呂、嫁のタンス、ありえそうな場所、ありえない場所、あらゆるところを探してやっぱり家にはないと気づいた時、心拍数は急激に上がる。今まで縋り付いてきた楽観に背を向けられ、絶望的な現実を突きつけられる。カード、カード、カード、現金15000円、再発行できるか怪しい中国のキャッシュカード(貯金が凍結するということだ)、免許証(末番が1になるということだ)。

とりあえず、警察に届けようと震える手で船橋警察署に電話をかける。

家から駅に歩く間にポケットから落ちた可能性もある。時間や場所を詳しく説明する。

○○○○ さんですね?

はいそうです。

届いてますよ。本人確認必要ですので取りに来てください。

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あるのだ、本当にこんな話が。

いるのだ、道端に落ちてた財布を拾って、わざわざ2キロも離れた警察署に届けてくれる人が。土曜の晴れた朝、予定もあるだろう中でわざわざ届けてくれた人はどんな方だろう。

お礼がしたいと言ったが警官の若い女性はふと笑ってそういうのは大丈夫ですのでと言った。

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なのでせめて、ここでお礼を言わせて下さい。誰も読まないネットの片隅に存在するこんなブログだけれども、ひょんな事から善良なあなたの目に入る事もあるかもしれません。ありがとうございました。あなたのおかげで私は本当に救われました。

同じ財布をずっと使い続けるということ

この財布を買ってから12年が経った。その頃はナイロンの財布しか持っておらず、皮に憧れてしょっちゅう、「革財布 一生物」や「革財布 経年変化」などと検索していて、使い込まれた財布の写真など見て一人胸を熱くさせたものだ。

 

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herzのド定番二つ折り革財布 WS-5(キャメル) 2007年購入当時は9500円


その中でもよく出てきたのがherzの二つ折り財布だった。とにかく頑丈で、革の経年変化が楽しめて、一生物です、しかも安いと、その情報に心躍らせながら青山のTOM DICK&HARRYに足を運び、二つ折り財布WS-5を買ったのであった。WS-5の売り場にはスタッフが一年使ったサンプルが置いてあり、色が濃くなり艶が増したそのキャメルの財布をいつまでも撫でていたいと思った。

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買ってからしばらくはもう財布を眺めてはデレデレしていた。革に詳しい友達からおでこの脂を塗るといいと言われておでこに財布をスリスリし、かすかに艶が増すとそれを飽くことなく眺めたものだ。

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かすかにHERZの文字が見える。

山に登るにも自転車で旅行するにも海外を放浪するときにもその財布はポケットの中にあった。汗や雨で革の光沢は鈍くなり、タイでカヌーに乗っていた時は海に落として塩水を吸ってぶくぶくになった。それでも干して乾かししばらく使っていると元どおりの光沢を取り戻す。

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いつのまにか、財布のことは一切気にしなくなっていた。毎日毎日ただただ使い続けてたまに思い出したようにオイルを塗った。数年使った頃、眼鏡屋で会計する時に店員さんが俺の財布を見て言った。herzの財布ですよね。俺は10年使って糸切れちゃって買い直したけど、修理すれば一緒使えますよ。

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使って10年が経つ頃やはり糸が切れ、もう見た目も割とみすぼらしくなっており買い替えを考えた。いろんなサイトや店を訪れ、新品の革財布を見て心を躍らせたが、実際買うには至らなかった。結局新品の財布を買っても10年後には同じようにボロボロになるのだ。それであればこの財布を労って使い続けた方がいいじゃないかと。

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大体皆買いかえなと言うが、革小物大好きな友人はオイルが足りないと言った。


糸の修理代はherzの渋谷本店で1000円足らずでやってくれた。糸が新しくなって気持ちいい。久しぶりに財布にオイルを塗ると、財布は鈍い光沢で答えた。

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物に愛着が強すぎる人は結局物を買い換えることが多い。数々の記事を見て一体何回「一生物」を買いかえてるんだ、と思うことは多い。気持ちはわかる。愛しすぎると、その物の不満な点や、もっといいもの、もっと「一生使えそうな物」が目に入りどうしても買い替えたくなってしまう。

一つの物を一番長く使い続けるのは物に無頓着な人だ。俺だって、毎日おでこをスリスリするほど財布を愛していたらとっくにココマイスターの「一生物」の財布(ブライドルレザー)に買い替えていたに違いない。

10年も同じ財布を愛し続けられない。でも何気なしに使っていて気づいたら10年、20年と使っている。そうやって使われ続けた物はなんでも、メーカーやブランドや価格の高低問わず美しい。

 

金子眼鏡に取り憑かれて出費地獄

眼鏡をよく失くす。社会人になってから金子眼鏡というブランドの眼鏡をかけてるんだけど、三年に一回のペースで失くす。飲んで電車で寝て、フラフラになって駅に降りる。しばらく歩いていると視界がぼんやりしていることに気づく。ハッとなり顔に手をやる。おいおいまただよ。また失くなったよ。翌日から一週間くらいJRの遺失物センターから居酒屋から関係各所いたるところにイタ電レベルで電話を掛けまくるが見つかったことは一度としてない。一体どういった経緯で失くなってるんだか検討もつかない。眼鏡なんて誰もネコババしないだろうに。

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セルロイドの漆黒の艶が素晴らしい

ちなみにこれは三本目。失くす度に全く同じモデルを買い、その度に4万円位かかるんだけど、もう金子眼鏡中毒になっていてこの出費地獄から脱出できない。

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学生の時はJ◯NSとかZ◯ffとかの眼鏡をしてて、それもよく失くして買い直していた。五千円くらいだったけど、それだって大きな出費である。当時からずっと思っていた。傘と眼鏡は高級品は買えないと。傘なんか電車に乗って手摺に掛けたり、居酒屋の傘立てに立てたりしたらもう確実に失くす。だから傘は余程雨脚が強くないと持ち歩かず、楽観的な予想(まあ、降らねえだろ)が外れてずぶ濡れで家に帰ることも多い。

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そんな俺がなんで金子眼鏡なんて高級品に手を出すことになったのか。店頭に展示されている眼鏡を何気なく掛けてみて心を打たれたのだ。とにかくそのフィット感は素晴らしい。まるで眼鏡が俺の顔から生えているかのようである。その時は金額を見て、高えってなり店を後にしたが、金子眼鏡は頭から離れない。よくよく考えれば眼は重要である。それを買って1ヶ月でずり落ち始める安い眼鏡を使ってないがしろにして良いのだろうか。眼鏡は身体の一部なのだ。

そんなことを自分に言い聞かせ、一週間後に店にのこのこ馳せ参じ買ってしまったのだ。金子眼鏡を。店頭で店員さんが丁寧に合わせてくれたフレームのフィット感は絶大で、これはもはや俺の眼である。

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鼻の高さ関係なくピタッとフィットする 丁寧に作り込まれた鼻当て

今まで15年間してきた眼鏡は一体なんだったんだろうと思う。俺の15年を返せと。15年前からこの眼鏡かけてたらイチローか錦織か、それか偉大なサラリーマンになってたに違いない。かけたままテニスしてもぐらつかず、スキーでこけても吹っ飛ばず、スポーツ眼鏡の必要性を感じない。

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この眼鏡は今は珍しいセルロイド製で鯖江の職人が一本一本手で仕上げてるそうだ。セルロイドが顔の熱で変形して掛けるほど顔に馴染むといわれ、本当かよ、鉄心入ってんだぞ?と思ったが三年後には既に頭蓋骨と同化してたからあながちデマでもないのかもしれない。

レンズに傷がつきにくいのも魅力である。眼鏡を失くした時昔していたJ◯NSの眼鏡を掛けたんだけどレンズが傷だらけで、しかも3°位左側に傾いでいて1時間で頭が痛くなった。それに比べて金子眼鏡のレンズはまるで防弾ガラス。三年使うと流石に少し傷は入るが気になる程ではない。

ヒンジ部分も極めて頑丈である。安い眼鏡だとここの部分は数ヶ月でネジが緩んでツルがブラブラになる→精密ドライバーで締める→またブラブラになる、をひたすら繰り返すのだが、ネジの緩みは全くない。締め付け具合も絶妙で、ベンツの扉の様に限りなく滑らかに開閉する。

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ヒンジ部の動作は非常に滑らか

後はフレームにGPS発振機でも埋め込んでiPhoneを探す、ならぬ「金子眼鏡を探す」ができたら最高なんだけど、フレームは重くなるし、充電も面倒くさい。どうせ肝心な時に電池が切れてて結局見つけられず、余計に悔しいオチが見える。

 

 

嫁とハイアットに

ハイアットに行ってきた。その名もハイアットプレイストーキョーベイ。2019年7月に千葉県の新浦安に開業したばかりの出来立てホカホカの高級ホテルである。所在は千葉県だが、東京湾に面しているのでこの名前に嘘はない。

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緊縮財政下の我々が、車で20分ほどのホテルになぜ泊まることになったのか、経緯は色々あるがここでは述べない。当日予約だったのもあり、少し割引されていた。キングサイズベッド、朝食ビュッフェ付きで23000円也。

ホテルはその名の通り東京ベイのへりにあり、新浦安駅からとんでもなく離れているので荷物の多い我々は車でホテルへ向かう。駐車料金は一泊1800円。約0.2人分。

ロビーに入ると右手にコシノジュンコの絵画【horizon】が、斜め右前には水垢一つ付いてない熱帯魚の水槽が。そして妖艶な女性がピアノで聴いたことのあるクラシックを弾いている。ツートンカラーのロビーの女性に出迎えられ、洗練された笑顔とただならぬ雰囲気に我々は緊張して笑顔が強張り声はカラカラになった。

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海側の部屋は開放的で明るく、新築の匂いがしてシーツはパリパリであった。ホテルの部屋に入った瞬間不慣れな我々は歓声を上げそうになるが、ホテルの人が後ろで荷物を持ってくれている。オホンと咳払いをして荷物を受け取り礼を言う。はしゃいだら貧乏人だと思われるからと見栄を張って冷静な顔をしないといけないこの瞬間がいつも嫌いである。まあホテルの人は気になんかしていないんだろうけど。本当は部屋に入った瞬間ベッドにバフってやりたいのだ。

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ホテルのテレビはBSからCNNからディズニーチャンネル、それにWOWOWまで全て無料で見放題である。普段WOWOWなんて見ることのない我々下々民はベッドでゴロゴロしながらサザンのライブ特集を心ゆくまで楽しんだ。

ルーフトップバーに上がる。ルーフトップバーへはエレベーターが直通しており、ホテルの宿泊客じゃなくても自由に出入りできる地元民への親切設計。隣の大学の学生とか、たまに奮発して彼女と来ちゃったりするんだろう。そして知り合いと鉢合わせて撃沈みたいなこともあるんだろう。

昼間は海が見えて絶景だそうだが、夜はガラスの仕切り板に灯りが反射して景色はあまりよく見えない。それでも煌煌と輝く満月の下、夜風にそよそよ吹かれ右手にシャンパン持ちしたビールグラスを傾ける。これがセレブか!

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ルーフトップバー 下の灯りがガラスに反射して景色はよく見えない

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ループトップバーのメニュー表 お洒落な割に飲み物の価格は良心的 チャージも10%

部屋に戻る前にセレブらしく一階のロビーに併設されているローソンでスナック菓子と飲み物を買って部屋に戻る。

ブッフェの朝食が待っているというのに、寝る前に調子こいてハッピーターンをお腹いっぱい食べた我々下々民は翌朝起きると当然のように胃もたれしていて、余り食べられない。しかし目の前でシェフが作ってくれた芸術的なオムレツを食べて、蜂の巣から滴って来るはちみつをスプーンでこそげとって入れたカフェオレを飲んで我々は満足する。このレストランは何と宿泊客以外にも24時間開放という、渦中のセブンイレブンも真っ青の親切営業で、飲み過ぎて終電を逃してしまった若者の救いの場になるに違いない。ちなみにすぐ近くには飲み屋は見当たらない。

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最高級の江戸前鮨が食べられると噂のすし絵馬に行けなかったのが残念だが、我々は多くは求めまい。チェックアウトと共に我々はス◯ローの民に戻るのだ。滞在時間は18時間程だったがこんなにゆっくりしたもの久しぶりである。いい週末を過ごした。

 

自転車で稚内から鹿児島まで走った話

今週のお題「わたしと乗り物」

 買ったばかりの廉価版クロスバイク(GIANTのescape R3)を携えて特急「スーパー宗谷」の終点、稚内駅に降り立ったのは丁度10年前の今頃だった。大学3年の夏休み。自転車で日本を縦断するという行為に魅せられて、自転車を買い、バイトの長期休暇を申し入れてここまで来たのだ。

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当時のA5判日記帳 チケットやら何やらが無造作に挟まれたまま残っている

 何の為に?とよく聞かれたが、自分でもよくわからない。別に特段の悩みがあったわけでもない。10年経った今となってはいよいよわからない。しかし今になってもその思い出は胸を熱くし怠け切った自分を叱咤激励する。そんな思い出はそうそうある物ではない。

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 スーパー宗谷の車窓から見る景色は雨に煙っていた。札幌から4時間。札幌駅のキオスクで買った小説を読みながら、そしてウトウトしながら電車に揺られ、稚内に着いた時には雨は止みうっすら晴れ間が見えていた。

 自転車を組み立て宗谷岬に向かう。とりあえず、日本最北端から本州最南端にある鹿児島県の佐多岬を目指すのだ。風に吹かれる記念碑を前に胸は高鳴る。宗谷丘陵を走り、夕暮れの誰もいないエサヌカ線を走り、日本最北の村、猿払村の道の駅に投宿する。付設の温泉に入り、キャンプ場の屋外ステージに買ったばかりの寝袋を広げ、ゴロンと横になる。見はらす限り何もないその場所で、しんとした夜の外気が時折そよぎ顔を撫でた。野宿は初めてだったが、ここまで豊かな眠りを俺は未だに知らない。

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 北海道は5日で駆け抜けた。旭川美瑛富良野と降りてきて、札幌へ抜ける最後の峠では土砂降りの雨に降られた。延々に続くと思われた函館半島の海沿いの道を夕日を右手にひたすら漕ぎ、疲れ果てたらバス停で眠った。積丹の海岸に野宿した時には猛烈な蚊の大群に襲われ顔がボコボコになった。蚊よけネットは意味を成さなかった。これ以来俺は野宿をする時には両手両足の四隅に結界の様に香取線香を炊いて寝ることになる。その時の装備品には未だに香取線香の臭いが染み付いていて、その臭いを嗅ぐ度にこの自転車旅を思い出す。

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 何をそんなに急いでいたのか。一日100km以上漕ぎ、地方の特産等には目もくれず、米食べ放題のチェーン店で犬の様にガツガツ飯を食べた。安い温泉に入り道の駅やバス停で眠った。優雅に観光すればよいのにと思うかも知れない。金がなかっただけではない。特に観光には興味がなかったのだ。ただ何か勲章が欲しかったのかも知れない。北海道から鹿児島まで漕いだんだぞと。やりきったんだぞと。当然そんなもの他人からすれば何の意味もない。もしかしたら、何一つ成し遂げた事の無かった自分に対してそう言ってやりたかっただけなのかも知れない。

 青函連絡鉄道に乗って青森に入り、東北地方をひたすら南下した。会津を抜け日光に入り、日光ではたまたま出会った夫婦に一夜の宿をお世話になった。小汚い、臭い俺を何のてらいもなく迎え入れてくれ、酒を振舞ってくれた温かい夜。そばの大谷川がゴウゴウ音を立てるのを聴きながら久しぶりに布団で眠った。そこへは旅行が終わった後も何度か遊びにお邪魔した。

 金精峠を抜け群馬に入る。中之条の青い夕闇の中、たった一人で自転車を漕いでいると日光での温かい夜が思い出され、ふと寂しくなる。目の前を通る電車に乗った家路に着く人々をみると家族が、恋人が頭に浮かび千葉に帰りたくなったのもこの時期である。

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 乗鞍の延々と続く上り坂を登り切り、白川郷に続く鬱蒼とした天生峠で熊に怯え、そして関ヶ原を超えた。もうその頃には変な感傷にも冒されず、疲労も覚えず一日中坦々と自転車を漕ぎ続ける体力がついていた。

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 その時代、スマートフォン等持っていなかったので、地方が変わる度にその地のツーリングマップルを買った。少し漕いで現在地を確認し、道路の青い標識を見てまた自転車を漕ぐ。マップに記載されている温泉や道の駅等を見ながら、昼過ぎには今日寝る場所を決めた。夜になってから寝床を探すのは骨が折れる。蚊が湧きそうか、人の流れはどうか。そして何よりその地は安全か。それを検証するには昼間でないといけない。

 一度寝床を見つけられずに夜を迎えた事があった。途中のバス停にツーリングマップルを忘れ、俺は現在地もわからず秋田の山奥にいた。道はどんどん登り続け、日はとっぷり暮れ、真っ暗な峠道で心底心細く泣きそうになったその時、道は下りに転じ山間に灯りが見えたのだった。そこは玉川温泉郷であった。寒くて野宿も出来そうになかったのでお金を払い、湯治に来たおじいさん達と一晩だけ部屋を共にした。

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 9月の暮れに最後の土地、九州に足を踏み入れた。リュックに入ったツーリングマップルは6冊を数えた。覚えているのは、九州最深部のいつ終わるともしれない狭隘な薄暗い峠道、阿蘇の絶景、そして佐多岬へとひたすら南下する海岸道路から見た夕日に染まる開聞岳である。九州の山は本当に深くそして先が見えず、鍛え上げられた太腿も悲鳴を上げた。

 そこまで来ると、流石に抜けきらない疲労が澱のように溜まっていた。そんな中大観峰阿蘇の外輪山を一望した時、その美しさを前にして心の底から湧きあがってきた歓喜の爆発は今でも忘れない。宗谷岬から3000kmはるばる自転車を漕いできた自分をこの景色がずっと待っていてくれた様な気がしたものだった。景色は心の裏返しである。あの時、車で来たってこの景色はみることはできないだろうと思ったが、その思いは今でも変わらない。

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 旅行の最中ずっと日記を付けていた。寝袋に入るといつも取り外し式の自転車のライトを口にくわえ、暗闇でいそいそと日記を書いたものだ。その日記にはその日走った行程と出会った人、道中あったこと、自転車を漕ぎながら思ったことを脈絡もなく書いている。雨に打たれ、汗がしみこんだA5判の日記帳はページが抜け落ちてずたぼろであり、字は汚いし、書いてあることは愚にもつかない戯言なのだが、その日記を読み返すと日記を書いていた場所やその時の気持ちまでありありと思い出せるから不思議だ。スマートフォンやパソコンで書く日記には無い、実体というか、ある種の迫力がそこにはある。

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日記の一部 会えるなら言ってやりたい。記録はないが思い出はしっかり残っていると。だから心配せずに楽しめばよいと。

 思えば旅の最中、この記憶というか、思い出を失ってしまうのを酷く恐れた時期があった。カメラを持っていけばもっと鮮明に旅の記録を残せたのに、と後悔した事も数限りない。阿蘇の草千里の景色に圧倒された時、思わず売店インスタントカメラを買い、その後の九州の行程を写真に残したのだが、結局そのカメラの中身は現像されずに俺の机にずっと置きっぱなしになった。元来がものぐさなのだ。結局社会人になって実家を引き払った時、そのカメラもどっかへ行ってしまった。今も時たま思う。現像したらそこにはどんな景色が映っていたのだろうかと。草千里の滲みるような緑は上手く撮れていただろうか。真っ青な海に隆々と浮かぶ桜島の迫力を上手く伝えられていただろうか。

 次に行った旅行では祖父に借りたデジタルカメラで沢山写真を撮った。それこそ取り憑かれたように。その旅行で感じた事は、結局写真を撮っても撮らなくても、思い出は変わらないと言う事だ。写真に撮った所で忘れてしまうものは忘れるし、撮っていなくたって覚えているものはしっかり覚えている。思い出は、写真に撮ったから残る様な簡単なものではない。旅行の実体の伴った写真は後から見返すとほんの一部であり、大多数はただの写真としてしか入って来ない。

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西伊豆 仁科峠 カメラを持っていった南関東の旅行で心底感動した景色の一つ 

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 旅行の最終日、垂水から90kmひたすら漕いで大泊に着いたのは夕方であった。深紅の夕日が開聞岳を照らす。

 大泊から佐多岬までは佐多岬ロードパークと呼ばれる有料道路を通らねばならない。しかし時間が遅かったからかもしれない。ゲートはなんと閉鎖されていた!途方に暮れたが選択肢は一つだった。荷物を満載した自転車をエッコラと持ち上げ、腰ほどの高さのゲートを超え、追っかけてくる人はいないかと後ろを何度も確認しながら自転車を走らせた。そこはヤシの木が並び、密度の濃い木々が鬱蒼と茂る南国の別世界であった。つるっとした宗谷岬とは大違いだ。アップダウンをいくつも超えて佐多岬に着いた時、日は既に落ち、真っ赤な空は徐々に色を失いつつあった。

 そこに達成感はあっただろうか。感慨はあっただろうか。少しはあったのかもしれないが、もう覚えていない。多分着いた瞬間日本縦断をやり遂げたなんてことはどうでもよくなったのだろう。思い出すのは、今まで一心不乱に佐多岬を目指してきた中で出会った人であり、景色であった。ようやく到着したゴール地点で、目の前の岬より今までの過程に思いが向くのも皮肉な話かもしれないが、人生とは万事が万事、こうなのかもしれない。

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 ホテル佐多岬に着いた時には既に日は暮れていた。今日はホテルの前にある大泊キャンプ場で眠るのだ。ホテルの温泉につかり、客が一人もいないホテルのレストランでから揚げ定食を注文する。レストランの店長はから揚げを運んできて、どこから来たので?と言った。俺が稚内から来ましたというと、店長は右腕を垂直に、左腕を斜め下に伸ばし、掌をひらひらさせてにっこり笑って言った。ほう、日本の端から端まで、それは御苦労!

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 その晩酷い嵐だったことを覚えている。風の唸りと時たま顔にかかるしぶきで夜中によく起きた。何回目かに目が覚めると目の前の海が夜明けの光の中優しく波を打っていた。荷物をまとめバス停に向かう。今日は自転車をばらし、バスに乗って鹿児島空港に向かう。いよいよ家に帰るのだ。

 鹿児島空港から家まではあっという間だった。今まで随分遠い所にいたような気がしたが、実際は飛行機で1時間足らずの所を自転車でえっちら漕いでいただけだったのだ。10月の東京はすっかり涼しくなっていた。午後の光を浴びながら京急の車窓からぼんやり東京の景色を見ていると、この旅行が全て夢だったような気がした。家に着くとパソコンから目を上げた母があらおかえりと言った。

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後日撮った自転車の写真 荷物を満載してた為ホイールのスポークはしょっちゅう折れた